2024年7月4日(木曜日)午前10時より、下関市生涯学習プラザ 宙のホールにて、令和6年度 梅光メモリアルデーを開催いたしました。
今年は、日本福音ルーテル下関・厚狭・宇部教会の中島共生牧師にお話をいただきました。全文をご紹介します。
説教題『最期の言葉』
聖書箇所:ヨハネによる福音書 16章25節から33節
梅光学院同窓会の皆さま、初めまして。日本福音ルーテル下関・厚狭・宇部教会にて牧師を務めております中島共生と申します。今日、こうしてメモリアルデーでの説教奉仕が与えられ、心より感謝しております。ご依頼を受けた時、正直に申し上げますと、不安に思いました。『私でいいのかな…』と思いました。このメモリアルデーの持つ重さや、これまでの歴史を掴み切れていない若造に、務まるのだろうか。けれど、だからこそこの日の、この役割が与えられたのかなとも思ったのです。メモリアルデー、先に逝きし先達を覚え、主の与えてくださった恵みをみ言葉に聞く、そのことだけに目を注ぐならば、この大役を果たせるかも知れないと希望を感じました。そして、下関に赴任して6年、僅かな経験ではありますが、その中で経験してきた信仰者と主の出来事について、お分かちできればと思っています。
今朝の礼拝メッセージ、そのタイトルは「最期の言葉」といたしました。皆さんは、最期の言葉と聞いて、どちらをイメージされたでしょうか。つまり、皆さんが最期に遺す言葉か、皆さんが最期に聞く言葉か。恐らく、多くの皆さまが、自分が最期に遺す言葉をイメージしたのではないでしょうか。いわゆる遺言をもう既に用意されている方もおられるでしょう。教会に通っている方であれば、自分の葬儀にはこのみ言葉を読んで欲しい、この讃美歌を歌って欲しいとお願いしている方もおられるでしょうか。下関に赴任して6年目、これまでのおよそ5年の間に、葬儀は23件ありました。その経験から、今日は三つのことをお話したいと思います。一つ目は、遺影の写真は早めに選んでおいた方がいい、ということです。これは半分冗談ですが、半分は本当のことです。葬儀の打合せで困るのが、この遺影の写真と、本籍がどこか、ということです。施設に入っておられる方であれば、施設の方で写真を撮ってくれているということがあります。もし、若い時の、美しい姿の写真でと思われるのであれば、今の内から写真の整理をしておくことが、皆さまのため、そして家族のためにもなるということをお伝えしておきます。
お話ししたい二つ目のこと、それは皆さんが遺す最期の言葉について、です。福岡の施設に入っておられる方がおられました。その方は、かつては教会女性会長や会計役員を担ったこともある方でした。コロナ禍前に一度お会いすることができました。その方は、いわゆる認知症の状態にありました。自分の名前も、最愛の娘の顔も名前も思い出せない、分からない、そういう状況です。お会いして、牧師ですと自己紹介しても、ニコッと笑ってくださるだけ。言葉は返ってこない。しかし、その方には、一つだけ遺されていた言葉がありました。それは、主われを愛すという讃美歌でした。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。」この讃美歌だけが、彼女に遺されていたのです。昨年、この方を見送りました。もちろん、主われを愛すを全員で賛美してお見送りいたしました。私たちは、あれこれと思いめぐらせても、もしかしたら最期の言葉を自分で用意することができないかも知れない。でも、神さまは私たちに相応しい言葉を残してくださる、そう信頼してゆくことも大切なことなのではないでしょうか。
お話ししたいことの三つ目は、私たちが最期に聞く言葉についてです。言い換えるならば、私たちが誰かを見送る最期の言葉と言ってもいいでしょうか。2020年、新型コロナウイルスの感染が爆発的に広がった頃、時代の流れと逆行するように、一人の牧師がアメリカのコロナ病棟にチャプレンとして派遣されてゆきました。関野和寛という牧師です。今よりずっと厳しい制限にあった頃です。コロナ患者が家族に会えるのは死の数分前、そういう状況だったそうです。変わり果てた家族の姿に、泣き崩れ、立ち尽くす。とても最期の別れができるような状況じゃない。関野牧師はその傍らに立ち続け、苦しみ抜きました。そしてその末に、6つの言葉が聞こえてきたと言います。愛する者との別離に際し、『ありがとう』『ごめんね』『許すよ』『もう行っていいよ』『愛しているよ』『また会おう』この6つの言葉が、遺される者の励ましになったと言うのです。『ありがとう』『ごめんね』『許すよ』『もう行っていいよ』『愛しているよ』『また会おう』きっと皆さん、聞いたことのある言葉だと思います。特別な言葉は何一つありません。どれも、私たちがいつも耳にして、そして掛けている言葉です。死は、特別な瞬間です。でもその特別な瞬間に立ち会うのは、特別な人たちではありません。いつも見るあの顔が、その場、その時を作るのです。そこにはかしこまった言葉は似つかわしくない。いつも語り掛け、いつも聞こえてくる言葉たちが相応しい。それはつまり、私たちは最期の日に掛けるべき言葉を、実はいつも掛けることができるのです。今日、お家に帰ったら、伝えてみてください。『ありがとう』『ごめんね』『許すよ』『愛しているよ』『また会おう』。『もう行っていいよ』だけはまだ言わないでくださいね。誤解を生みかねないので。なんだか、少し気恥しいかも知れない、でも、大切な人が大切なのは、別れのその日だけではありません。今日も大切なのです。私たちは少し、コロナから距離が出来ました。別れも死の数分前なんてことも、もうありません。けれど、いつがその日か、本当のところ、私たちには分からないのです。今伝えることができる言葉は、今伝えたっていいはずです。本気の言葉は、何度伝えたってその都度、感動が伝わるからです。私たちが今日聞きたい、聖書の言葉も同様です。
約2000年前に書かれた新約聖書。今朝はヨハネによる福音書から聞きました。これまで何千、何万とこの箇所が語られ、説き明かされてきたでしょう。今朝お読みした箇所は、イエスさまの遺言です。弟子たちに向けて語られた最期の言葉。何を話したでしょうか。何を託したでしょうか。これまで教えてきたことと全く違うことをイエスさまはいきなりお話しされたのではありませんでした。これまでは譬えを用いて話してきたが、これからは譬えを用いずに語ろう。何を語るのでしょうか。あなたがたが父なる神さまから愛されていることを語るのです。その愛ゆえに、イエスさまがこの世界に遣わされてきたし、これから十字架にかかり死ななければならないこと、けれども復活し、そして父なる神さまのもとに再び昇ってゆく。足早に語られるこれまでのことと、これからのこと。弟子たちに語られたこの最期の言葉、その端から端まで、弟子たちが理解することができたでしょうか。理解できなかったのではないでしょうか。では理解できないのに、なぜ話す必要があるのでしょうか。それは、これから理解できるようになるからです。イエスさまは、弟子たちに言います。『あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまう時が来る。』十字架を目の前に、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ、隠れてしまいました。普通、遺言を託すならば誰に託しますか。信頼できる人ですか、社会的な立場のある人ですか、それとも、この人は絶対裏切らないと信じられる人でしょうか。イエスさまは、この人になら裏切られてもいい、そういう人に最期の言葉を託したのです。自分を裏切ってしまう、その先のことまで考えて、言葉を託しました。弟子たちはこの日、自分たちに語られたこの言葉があったから、再び前を向くことができたのではないでしょうか。イエスさまを置いて逃げ出してしまった自分、隠れてしまった自分、そのことを、弟子たちは一生、消えない十字架として背負ったはずです。そして自分の弱さを思い知る度に、この日の言葉が彼らの心を奮い立たせたはずです。これらの言葉、遺言をあなた方に託したのは、あなたがたが平和を得るためなのだから。
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に、世に勝っている。言うまでもなく、これらの言葉は十字架による罪の赦し、そして復活の希望を意味しています。この世では苦難がある。それは、この後弟子たちが歩んだ苦しい宣教の道を指しているでしょう。では今朝、この言葉を私たちはどう聞くでしょうか。愛する者との別離。私たちが出会う、大きな、大きな苦難です。イエスさまは、悲しむな、とは言わないのです。泣く者を前にして、どうせ天の御国で出会うのだから、と合理的な判断も下しません。私たちは、悲しみに身を寄せていいのです。しかし、勇気を出しなさい。勇気。なかなか強い言葉だと思います。それは、聖書の語る勇気という言葉が、私たちが普段使う『勇気』とは少しニュアンスが異なるからです。これは、困難に立ち向かってゆく、勇敢、そういう言葉ではありません。いかなる状況にあっても、主が共にいてくださる、そのことを知っていなさい、そういう言葉です。言い換えるならば、安心していい、と言う言葉でしょうか。『安心していい。私が共にいるのだから。』それが主の語られる勇気です。
およそこれ以上ないと思える、別離という悲しみ。しかしそこにも、その大きな悲しみの最中にも、主は共にいてくださるのです。それこそが、私たちが絶えず聞き、そして最後に聞きたい言葉なのかも知れません。主が共にいてくださる。私と共に、皆さんと共に、そして、天に逝きし先達と共に。メモリアルデー。召天者を覚える日を私たちは今朝、迎えています。それは、召天者の名前を暗記することではもちろんありません。神さまに拠って与えられた尊い命が確かにあったこと、そして天の御国で再び相まみえる希望が与えられていることを、そのことを心に刻む一日です。最期に、イエスさまの遺言、33節の言葉を聞いて本説教を結びたいと思います。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」お祈りいたします。
命の源なる神さま
今朝、私たちは逝きし者にあなたによって与えられた命、支えられた道のりがあったことを覚え、感謝いたします。これまで梅光学院の建学の精神を受け継ぎ、守り導いてきた先達の働きをあなたが豊かに顧みてくださいますように。そして今日、こうして、梅光学院同窓会の働きに拠って私たちが一つ所に集められた幸いを深く感謝いたします。これからも私たちの交わりが主によって守られ、導かれてゆきますように。
梅光学院で学ぶ学生一人ひとりを覚え、祈ります。彼ら、彼女らが豊かな学びを得て、そしてキリストの心を心とする者として歩んでゆくことができますように。励まし、導いてください。そのために働く者たちの上に、主の知恵が授けられますように。
ここに集う一人一人の祈りと合わせ、全てのことをあなたに委ね、この祈りを私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
来年の梅光メモリアルデーは、2025年7月4日(金曜日)午前10時から
下関市生涯学習プラザ宙のホールでの開催です。