私の梅光 I Owe Baiko What I Am |龍崎美香

1979年夏、テキサスのフリーウエイを走る車の中でバックシートに体が溶けていくような不思議な開放感に包まれていた二十歳の私がいました。今から41年前のことです。

都会に憧れ、狭い村から出ることが目的で受験した関東の大学に全て不合格となり、何とか母校の梅光に滑り込むことができて3年が過ぎた頃、「学生たちに海外で勉強する機会を与えたい」という向山先生の強い思いで留学プログラムが実現しました。選抜試験の日はとても暑い日で、お弁当持参で午後からも続いたハードスケジュールに体調をくずす学生も出たほどでした。そのときに出題されたエッセイのひとつに “My Home Town” というのがありました。自分の知らないご先祖様のことまで近所の人たちが知っているような環境が窮屈でたまらなかった当時の私は、故郷の村を出たい理由を並べ立てました。そのエッセイがなぜか「論理的」との評価を受け、校費留学第一期生としてテキサスへ留学することとなりました。もし私に何か才能のようなものがあるとしたら、実力に見合わない幸運を引き寄せることかもしれません。

テキサスに着いてまもなくして撮ったものです。大学のロゴ入りのセーターを着ています。

どこにいても誰かに見られていたような環境から一転、誰も私を知る人がいない外国で最初に私がしたことは友達を作ることでした。何か口実を作っては寮の部屋をまわりました。人前で話すことが苦手で、ましてや初対面の人に話しかけるなどとんでもなかった私が寮の部屋をノックしてまわっているのです。自分の行動に自分が驚きました。そして、その時に「どこの国に行っても生きていけるかも」と思ったのでした。日本にいたら気づかなかったであろう自分との出会いも含め、たくさんの出会いを経験した1年でした。

クリスマス時期に学部長の部屋で撮ったものです

それから13年の時が経ち、二人の息子たちがそれぞれ小学校と幼稚園に入る年に英会話教室を始めることにしました。その仕事を選んだ理由は二つ、「点を線にすること」と「世界でたたかえる若者を育てること」でした。経験や努力によって私自身が身につけてきたことは、説得力を持って生徒たちに伝わります。失敗談や弱点は、得意なことを伝える時よりも強いインパクトを与えます。もちろんアメリカでの経験も役に立ちました。日本語ではソックスをソックと呼ぶことはありませんが、コインランドリーで洗濯をした後に片方のソックスをなくしたルームメイトが毎日のように “Where’s my sock!?  Where’s my sock!?” と叫んでいたエピソードを話すと、それ以降生徒たちは「sが抜けたくらいいいやん。それでも伝わるから」と言わなくなります。単数と複数の区別の大切さをテキストを使って説明するよりも断然効果があるのです。もうひとつの忘れられないアメリカでのエピソードは、4年生だったルームメイトが部屋のドアを開けながら、ベッドに寝そべっていた私に向かって「今日の夜は帰ってこないよ。いとこが射殺されてお葬式があるから」と言ったことでした。私がショックを受けたのは、近しい人が射殺されたこともさることながら、何でもないことのようにさらっとその話を彼女がしたことでした。

 

実際に現地で生活することでしか経験できないことを生徒たちにも体験して欲しいと思い、2~3年に一度希望者を短期留学に連れて行きました。文化やマナーの異なる国で、生き残るための「技」を必死で模索する生徒たちにアメリカにいた時の自分の姿を重ねました。

 

現在、外交官を始め様々な職種に就き国内外で活躍している卒業生たちです。私自身が向山先生の思いにこたえられたかどうかは甚だ疑問ですが、先生の思いを若い世代に繋げ、点を線にし、世界でたたかっていける若い人材を育てるお手伝いはできたのではないかと思っています。

 

“I owe Baiko what I am.”

43年前の大学受験の失敗がなければ今の私はありません。

向山先生を始め、多くの師の願いは私の中に生き続けています。今の私を作ってくれた梅光へのご恩返しの旅は私の命がある限り続きます。